ターナー賞の歩み展

 久々に展覧会の感想を。少し前になりますが、ターナー賞の歩み展を見てきたので、その感想でも。ターナー賞というのは、イギリスの現代アートの賞で、現代アートの世界では若手の登竜門的な意義のある賞だそうで、その受賞作品を時系列的に並べていったのが今回の展覧会です。もちろん、全部が来てるわけではありませんが、日本でこれだけの作品が見られるのはすごいですね。

 そんなわけで、そのターナー賞の中で、最も有名であろう作家で今回の自分の目当てであったデミアン・ハーストの作品を実物ではじめて見ましたが、やはり、展覧会の中ではダントツな感じはしてしまいました。

 牛を真っ二つに切った作品ですが、そのアイデアは賛否両論あるでしょうが、個人的には、それより何より色が抜群に良いなぁという感じで、ホルマリン漬けのその色の調整とかは偶然なんだろうか、そんなわけないよなぁ、これは時代を背負ってる色だなぁ、みたいな感じで、ある種、マルレーヌ・デュマスなどを見た時と同じような、ある意味ではファッション的でもあり、牛の実物だから当たり前にあるリアルさも、ある種の絵のタッチのような感覚に見えて、特に目とかは意味ありげな感じで、非常に見ていて不思議な感覚になりました。これは、もちろん、賛否あるでしょうが(自分の中にも否の部分もないでもないですが)、凄いかどうかでいえば、やはり凄い作品であるなぁと。

 その他では、自分が気にいったのは、ホジキンという人の絵画で、今回の展覧会は意外と絵画が少なくて、結局、自分にとって見るべきポイントというのはそんなに無くて、ああ、やっぱり、自分はアートというよりは絵画が好きなのかなぁなどとも思いましたが、その中で、この作品は絵画として抜群に良い感じがしたので、これが見れたのはよかったです。抽象的な作品ですが、こういう構成と色というか、絵の具の乗り具合の妙というのは、ホントにどうやったら出せるのか不思議ですというぐらい素晴らしい。と言っても、自分であんまり抽象は試してないので、それで分かりにくいというのもあるんでしょうが。

 と、その展覧会で好きだったのはそれぐらいで、全体的には、アート・・・う~ん。みたいな感じで難しい部分も感じたりもしてしまいました。いや、この難しいというのは「わからない」じゃなくて、やりたい事は分かるけど、それは人に強いるものなのだろうか?みたいな意味で難しいなぁと。途中、「NO MORE ART」みたいな写真もありましたが、そういうのも含めて、閉じてる感は否めないというか、ムリに独自の文化を築き上げてる感じが自分から見ると脆く見えたのですが、でも、イギリスの人に言わせるとそうじゃないかもしれないし。そういう意味で難しいなぁと。異文化感が多少ありましたね。というより、新人中心のセレクションなので、ある程度、完成度が低いという部分もあるのでしょうが。なので、この展覧会見たら、キャプションとか、説明の必要性を痛烈に感じたので、結構、横の文章とかも読んでしまったし。他人にないであろうルールでモノを創る場合、説明って必要だなぁと。

 あと、展覧会と同時にサスキア・オルドウォーバースさんという方の映像作品の上映もあったのですが、それは面白かったです。美しい映像(ビジュアル)と、直接的には関係ないような物語というか掌編と。ある種、自分がインターネットでやろうとしてる創作に近いなぁみたいな感じで、ちょっと同時性とかも感じたり。しかも、すごいクオリティーが高かったので、すごいなぁと。刺激になりました。

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システムと風評


 小学館問題に端を発して、マンガ界のシステムが言及されはじめています。あんまり時流に乗りたくないのと、ジャンプから外れても何なので、そっちの問題は置いとくとして、ジャンプにおける風評と新人供給の影響を考えてみます。

 まず、ジャンプの新人における悪評が最も高まっていたのは、「幽遊白書」末期あたりではないかと推測します。これは実感のみで言ってるので、全くアテになりませんが、連載を終了させたくてもさせられないとか、夜も眠れないけど無理矢理描かされる(人気が出ても降りられない)とか、人気の出るシステムが確立されてるので、やりたい事がやれないし、代替が効くので扱いが雑とか、その頃のジャンプの描く側の環境の劣悪化は半ば公然としたもののように考えられていましたから、その頃のマンガ志望者は、よほどカネに興味のない限り、あえてジャンプを選ぶという選択肢はありえないようにも思いました。もちろん、そういう話は、かなり以前から連綿と続いていて、そこで新人がサンデーに流れて、一時期、有能な才能がサンデーに続けて現れたというのが、自分の考えるマンガ界の流れだったりします(何の裏づけもないので何の根拠もありません)。

 それに基づいて、新人供給システムに風評のコントロールは不可欠だと自分は考えていて、逆にいえば、新規のマンガ誌、あるいは、システムにとって、つけいるスキがあるとすれば、そこでしょう。ガンガンやエースは、そのへんに対して、うまくやって、ある程度、市場に対してランディングしたと思われますが、それはジャンプの話ではないので、ここでは置いておきます。

 で、ジャンプですが、現在のジャンプを再び創りだしたのは、大まかにいえば、偶然にも尾田栄一郎という大変な才能がジャンプにやってきた、という話になるのでしょうが、それとは別に、新人供給に関しても、かなりの見直しを図って、復活したというのも波となって、大きなうねりとなった要因ではあるでしょう。

 これを創りだした一つの要因には、とにかく、やりたい事をやっていいから、という事なのか、編集者の態度を改めるという事なのか、とにもかくにも、最終的にジャンプの悪評を決定的に裏付けてしまった「幽遊」の終了をリカバーすべく、冨樫義博がジャンプに戻ってきたというのが最も大きい要因のように思います。これはジャンプに安定的にクオリティの高い作品が供給される(読者離れを食い止める)という意味もありましたが、とにかく、新人は、冨樫が帰ってきたのだから、システムの不具合も多少、修正されるに違いない、修正されたのだろう、と考えて、「安心して」作品をジャンプに送れるようになったのではないかという部分も大きいでしょう。これによって、また、それ以後、数々の才能がジャンプに集まりだしたような感じが自分にはしていました。

 もちろん、それだけでは片手落ちで、作品的な裏付けももう一つにあって、それは冨樫の作品のみならず、「すごいよ!マサルさん」の存在も大きかったように思います。こういう作者がやりたい放題やってるように見える作品をジャンプが抱えていて、それが表面に出てきた事によって、ジャンプの他誌に勝る自由度をアピール出来たという要因もあるのではないかと。

 しかも、それは漠然としたシステムのイメージコントロールなので、確定した事実ではありませんが、もう一つ、確定した事実として、ジャンプの新人供給のシステムとして、原作者をジャンプで募集した事もジャンプ復活の大きな要因になりました。これはハードなスケジュールと、システムに対応できるようになるまでの能力的蓄積(修行時代)に耐える体力を必要とする従来の「若いほどよかった」少年マンガ家と違って、原作者と作画者の作業を分担し、労力を減らす。そして、それによって、従来では考えられなかった上の年代の作家なども才能としてとりこめるようになり、また、ベテランのマンガ家を新たに活かす構造を創る要因となって、その後のジャンプをシステム的に支える事になりました。この賞の新設によって、ヒカ碁、アイシル、デスノートまで続くのですから、いかに、ある時点における新人供給対策が重要かはわかるというものでしょう。

 前にも書きましたが、現在は、マンガ家が供給過剰状態なので、はっきり言って、スタート段階での新人には代わりはいくらでもいるのは間違い無い事実でしょう。この供給過剰はシステム不備の一因になってるでしょうから、旧来型の育成システムが役に立ってるのかどうかは色々と精査する必要がありそうです。個人的には、システム側で制作インフラを整えた上で、少数の作家にコスト投資して、過剰な能力を蓄積するのがベストだと思いますが、そのへんに関してはプロ野球に一日の長がありそうなので、あとでそのへんについても少し考えてみたいと思います。


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